【植物と日本人の魂③】沖縄 ― 祖霊と精霊が交わる「日本の原風景」と7つの植物

目次

はじめに

「植物と日本人の魂」①・②では、日本人の精神文化を形づくってきた 神道 と、6世紀に渡来した 仏教 をめぐる植物を取り上げてきました。しかし、ここで立ち返るべき根源的な問いがあります。

では、仏教が入る“以前”の日本人の信仰はどうだったのか?

古代日本には、いまのような神社の制度も、祭祀の体系もほとんど存在していなかったと言われます。
「神道」という言葉そのものも、仏教が日本に入った後、“外来宗教と区別するために生まれた名称” にすぎません。

では仏教以前、日本列島の人々の信仰とは、どのようなものだったのでしょうか。

その“古神道の原風景”を、21世紀の現在においてなお もっとも濃密に伝えている場所
それが 沖縄 だといわれています。

沖縄には、本土ではすでに失われた森・石・風・海――自然そのものを神と感じる祈りの形が、静かに引き継がれ現在でも残っています。

森の奥の“何もない空間”が 御嶽(うたき) として神の依代となり、祈りを担ってきたのは 女性の司祭(ノロ、ツカサ)

一本の木、一本の草、風が通る隙間、地形そのもの、それらすべてが “神と人の境界線” として扱われてきました。

そして、この沖縄の精神世界の深さにもっとも強烈な衝撃を受けた人物がいます。

それが芸術家・岡本太郎です

彼は沖縄を歩きながら、「ここに日本の原始宗教が生きている」と直感し、日本人の深層に眠る“生命の初源”に触れたと語りました。

その記録は、『沖縄文化論—忘れられた日本』(中央公論社) 『神秘日本』(講談社)などに残されています。

岡本太郎が見た “日本人の魂の原風景としての沖縄”

本土復帰前の沖縄を訪れた岡本太郎は、そこで出会った宗教文化に“日本人の魂の深層”そのものが剥き出しになった姿を見ました。

●「沖縄には日本の原始宗教が生きている」

岡本太郎は『沖縄文化論』の中でこう述べています。

「沖縄には、日本の原始宗教、古神道に近い信仰が未だに生きている。」

祈りを支えるのは、ノロ(祝女)・ツカサ(司)と呼ばれる女性シャーマン。彼女たちは神と直接つながり、村の祭祀、生と死の儀式、祖霊祭を取り仕切ってきました。岡本太郎はその姿に古代日本の宗教の最も根源的な形を見ています。

●「なんにもない場所」こそ、神が降りる

もっとも衝撃を与えたのは、沖縄の聖地――御嶽(うたき)でした。

御嶽は、森の奥にぽっかりと開いた小さな広場で、中心に石が二つ三つあるだけ。祭壇も像も建物もない。ただ「何もない」。しかしその“空(くう)”こそが、もっとも神聖であり、もっとも原初的だと岡本太郎は語ります。

「神はこのように“なんにもない場所”におりて来て、透明な空気の中で人間と向き合うのだ。」

形ではなく、空間そのものが神になる。
これは、古代日本の信仰精神にきわめて近い思想です。

●「無垢な日本的信仰」が生きている

岡本太郎は、御嶽で感じたものをこう記します。

「高度な世界宗教とも、未開社会の原始宗教とも違う、きわめて日本的な神聖感につらぬかれた、無垢な信仰。」

「われわれの生命の初源的な姿、感動の根はそこにあるのではないか。」

沖縄は、岡本太郎にとって、“個人としての私”を超え、民族の奥深くに眠る感性そのものとつながる場所でした。つまり沖縄は、いまも日本人の“魂の原風景”を保持している特別な土地だと直感したのです。

沖縄における「人と祖霊、精霊を繋ぐ7つの植物」

沖縄の信仰は、祖霊、精霊、神という三つの存在が、ときに重なり、ときに行き交う世界観の上に成り立っています。沖縄では、植物そのものが“霊の器”として扱われ、森や一本の巨木までもが聖域となる。御嶽(うたき)、屋敷、旧盆の供え物……そのすべてに植物が深く結びつき、今も人々の暮らしや精神文化を支えています。

① クバ(ビロウ)―神が降りる森「御嶽(うたき)」を形づくる植物

沖縄の植物の中で、もっとも強い“霊性”と“聖性”を帯びる木のひとつが クバ(ビロウ) です。

クバは、沖縄の祭祀植物の中でも突出した地位を占め、クバほど儀礼の中心に据えられる植物は存在しません。

とくに久高島の秘祭 「イザイホー」 では、祭祀空間の壁・床・屋根・神具・供物の覆いまでも、そのほとんどにクバが使用されました。

それは単なる材料ではなく、クバが“場を神域へと変える植物”だからです。

クバは場を清め、神を招き、結界を張り、人と神の世界を隔てる、沖縄の信仰における最も原初的な役割を担ってきました。

御嶽(ウタキ)にクバが無数に自生しているのは偶然ではありません。神が降りる空間を守るために、意図的に植えらてきた木なのです。

② クロツグ(マーニ)――祓いと暮らしをつなぐ聖なるヤシ

沖縄の御嶽(うたき)を訪れると、しばしば目に入るヤシ科の植物があります。それがクロツグ(方言名:マーニ)です。

クロツグは、単なる在来のヤシ科植物ではなく、信仰と生活の両方に深く関わってきた特別な植物でした。

琉球では、クロツグの存在そのものが「ここは聖なる場である」ことを静かに示す境界の目印として機能してきたと考えられています。
社殿や偶像を持たない沖縄の聖地において、植物そのものが神域を示す。その思想を象徴する木のひとつが、クロツグです。

またクロツグは、祭祀や祓いの場面でも重要な役割を担ってきました。久高島の秘祭イザイホーでは、神事に関わる植物のひとつとして用いられてきました。

さらに、宮古島の厄払いの奇祭「パーントゥ」では、クロツグの葉を身にまとい、集落を巡りながら穢れを祓う神事が現代でも行われています。
ここでクロツグは、神を遠くから拝む対象ではなく、身体にまとう祓いの媒介として使われています。

一方で、クロツグは生活資材としても欠かせない存在でした。葉鞘から取れる黒い繊維は非常に丈夫で耐水性が高く、サバニ(沖縄の伝統漁船)の綱や箒、籠など、暮らしの道具として広く利用されてきました。

このようにクロツグは、祈りの場と日常生活のあいだを隔てるのではなく、その両方をつなぐ植物でした。

聖と俗を分けない沖縄の精神文化において、クロツグは「使われ、触れられ、身にまとう」ことで霊性を帯びてきた木なのです。

沖縄でクロツグが特別視されてきた理由は、神聖だから遠ざけられたのではなく、人の営みのすぐそばにあり続けたことにあります。

③ ガジュマル ―― 精霊キジムナーが宿る“霊木”

沖縄で 精霊が宿る木 として語られてきたのが、ガジュマルです。

幹や枝から無数の気根を垂らし、絡み合いながら大木へと変貌する姿は、とても神秘的です。

大木になると キジムナー と呼ばれる精霊が棲むとされてきました。赤い姿の子どもの精霊で、夜に現れ、いたずら好きだが人を害する存在ではない。人間が自然の領域に踏み込みすぎたとき、その境界を知らせるために現れる存在です。

言い伝えでは、大木になったガジュマルを無断で切ると不幸が起こる。切り倒したり、移動させる前には必ず祈りが必要だと伝えられています。現代では迷信とされる言い伝ですが、自然界の精霊に敬意を払うための知恵と言えるのではないでしょうか。

御嶽や拝所のそばに立つガジュマルは、神そのものではなく、人と精霊のあいだに立つ木。

ガジュマルは、人間が自然の主ではないことを思い出させる、沖縄の霊木なのです。

④ フクギ ―― 集落を包む「氣の森」

沖縄には、琉球時代の面影を今に伝える集落が残されています。そこを歩くと、人は知らぬ間にフクギ並木に守られていることに気づきます。古い集落では、一軒一軒の屋敷の境界にフクギが植えられ、さらに集落全体を囲むようにフクギ並木が連なっています。


フクギの特徴は、分厚く硬い葉と、風や潮に耐える強さ。台風の暴風を受け止め、潮害を防ぎ、燃えにくい葉は火災の延焼も防ぐため、現代では防風林・防火林として説明されることが多いでしょう。

しかし、フクギの本質は単なる防災樹ではありません。
屋敷や村を「囲む」その配置そのものが、琉球独自の空間思想――琉球風水「抱護(ほうご)」の思想を体現しています。

琉球風水における「抱護」とは、強風によって敷地や集落の内側に宿る生きた氣(生気)が吹き散らされないように護るための思想です。同時に、外からの邪気や荒い氣をやわらげ、内側にある穏やかな氣を保つ。
それは「防ぐ」というより、母が子を抱いて守り育てるように、地域や屋敷が人々の暮らしと命を包み込む思想でした。

フクギは、その抱護を最もわかりやすく形にした木です。海から吹き込む強い風や邪気を遮りながら、屋敷と人、そして祖霊の氣をやさしく包み込む。
家と家を隔てるためではなく、集落全体をひとつの氣の器として成立させるために植えられてきました。

家々が点として存在しているのではなく、集落という共同体そのものが、「生きた森」の中で守られ、生きてきたのです。

⑤ ススキ ―― 祓いと結界を担う「境目の草」

沖縄には、古くから 「シバサシ」 という行事が伝えられています。ススキに念を込めて束ねた「シバ」を、家の四隅や門に差し、魔よけの結界を張る ための習わしです。

沖縄の伝統的な世界観では、旧盆が終わると、先祖とともにこの世へ来た無縁仏や霊が、まだ成仏できずにさまようと考えられてきました。そのため旧暦8月は「魔物が出やすい月」とされ、各家庭や集落で、祓いと結界の行事が行われたのです。

この頃、夜道に 火の玉(方言:イニンビー) や幽霊が現れるという言い伝えも、各地に残されています。

沖縄の人々は、それをただ恐れるのではなく、祈りをもって向き合ってきた のです。

ススキは生命力が強く、葉先が鋭いことから、古くより 「魔を退ける草」 とされてきました。家の境に差すことで、外と内のあいだに目に見えない境界をつくります。

シバサシでは、このススキを家の四隅や出入口に差し込み、家全体を囲む「結界」 をつくります。

ススキによる結界は、石垣や柵のように固定されたものではありません。風に揺れ、やがて枯れ、役目を終えれば自然に消えていく。一時的で、柔らかな結界 です。

霊を完全に拒むのではなく、荒ぶるものをやわらげ、必要な存在だけを通すための境界。

ススキは、沖縄の繊細な死生観を体現した植物 なのです。

⑥ メドハギ ―― 祖霊を迎え、もてなす草

沖縄の旧盆は、死者を悼むだけでなく、祖霊を家に迎え入れる慶びの行事でもあります。

その始まりが、旧盆初日の ウンケー(御迎え)
この日、仏壇には迎え膳が供えられ、遠いあの世から帰るご先祖様を丁重にもてなします。

ここで用いられるのが メドハギ です。

メドハギの茎で作る ソーローメーシー(精霊箸) は、祖霊が扱うことのできる箸とされ、長旅で渇いた喉を癒す草とも考えられてきました。

また、葉先を束ねた ソーローホーチ(精霊箒) は、家に着いた祖霊が足の汚れや穢れを払うためのもの。
玄関に水とともに立てかけ、「ここで身を清めてお入りください」という無言のもてなしを表します。

霊を恐れて遠ざけるのではなく、疲れを癒し、安心して迎え入れる。

メドハギは、祖霊とともに過ごす時間をやさしく支える草として、沖縄のあたたかな死生観を今に伝えています。

⑦ サトウキビ ― 祖霊の旅を支える「杖」

沖縄では、旧盆の行事において、サトウキビは特別な意味をもつ供物として供えられます。

お盆の際、仏壇の左右に立てかけられるのが、方言で「グーサンウージ」と呼ばれるサトウキビです。
「グーサン」は杖、「ウージ」はサトウキビを意味し、その名のとおり、これはご先祖様が用いる杖を表しています。

一般には、サトウキビを七節分に切りそろえ、二本一組にして供えます。
沖縄の伝統的な世界観では、このグーサンウージは、ご先祖様がこの世とあの世を行き来する際のであり、旧盆最終日の「ウークイ(お見送り)」には、供え物や土産を担いで帰るための天秤棒としての役割も果たすとされてきました。

また、旧盆の初日「ウンケー(お迎え)」には、果物などとともに仏壇に供えられ、ご先祖様が迷わず家へ戻ってこられるよう、その足元を支える存在として迎えられます。

まっすぐに伸び、節を重ねながら育つサトウキビの姿には、命が途切れることなく、代々つながれていくことへの祈りが重ねられています。
グーサンウージは、祖霊の旅路を支える道具であると同時に、生きる者と亡き者とを静かにつなぐ、象徴的な存在なのです。


植物がそっと心を整えてくれるように、あなた自身の感情や身体にも、同じリズムがあります。
もし今、心や体が乱れを伝えてきているなら、その声を丁寧に聴く時間をつくってみませんか。

自然療法での【症例ケース】は以下からご覧いただけます。


【自然療法のご相談はこちら】から

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

自然療法セラピスト。
統合医療専門校で教育に携わり、自由が丘でサロンを運営。現在は沖縄を拠点に、インナーチャイルドやアダルトチルドレンによる「生きづらさ」「体調不良」を自然療法と対話でサポート。本来の自分を取り戻すお手伝いをしています。
南の島の自然ケアサロン 主催
元統合医療専門校講師
日本ホメオパシー医学協会(JPHMA)


詳しいプロフィールはこちら

コメント

コメントする

CAPTCHA


このサイトは reCAPTCHA によって保護されており、Google のプライバシーポリシー および 利用規約 に適用されます。

reCaptcha の認証期間が終了しました。ページを再読み込みしてください。

目次